平安時代後期、今から約950年前に造られたとされている木造阿弥陀如来像の胎内には、当時の寄進者と思われる藤原忠成ら34名の名前が墨書されている。当時北小河内は「蕗原庄」と呼ばれた藤原氏の荘園であったため、藤原氏一族の氏寺としての造像であると思われる。また、膝裏にある享徳4年(1455)の修理銘には「蕗原庄」の記載があり、当地が蕗原庄であったことを示す最古の現地資料となっている。昭和9年に国宝に指定され、その後、法の改正により昭和25年に重要文化財に指定された。元々は阿弥陀堂に安置され脇侍の聖観音菩薩、地蔵菩薩と現在も阿弥陀堂に安置されている不動明王、毘沙門天と共に五尊の形で奉られていた。現在は昭和38年に造られた放光殿(収蔵庫)に安置されている。

阿弥陀如来の脇侍である両像は、中尊である阿弥陀如来と同時期に三体一具として造立されたとされている。宝暦10年(1760)に飯田の仏師井出右兵衛運正と幸八により修理され、表面は古色仕上げとなっている。昭和55年に町有形文化財に指定され、その後平成20年に長野県宝に指定された。

建てられたのは享保13年(1728)、北小河内漆戸加兵衛の作とされている。カヤ葺、寄棟、向拝造り、正面三間、側面四間、中は上段、下段に分かれているなど、阿弥陀堂の古い形式を残している貴重な建造物である。堂内には阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩・地蔵菩薩、さらにその両脇に不動明王・毘沙門天が並び、五尊の形式で長い間安置されていたが、昭和38年に中央の三尊を放光殿に移した後は、不動明王と毘沙門天を本尊として据え、護摩堂として使用している。

旧阿弥陀堂の本尊となっているこの二尊は鎌倉時代の造像と考えられている。宝暦年間に井出右兵衛運正、幸八によって修理された。その修理の際に北条政子の要請によって弘長2年に制作されたとの書付が出たと「伊那神社仏閣記」に記されている。

無量寺の本尊薬師如来は、室町時代頃の作であるとされている。しかし、近年の調査では平安時代に造立された可能性を指摘する専門家もいる。右手を施無畏(せむい)印とし、左手に宝薬の入った薬壺を持つ。聖観音菩薩、地蔵菩薩と同様、宝暦10年(1760)に飯田の仏師井出右兵衛運正と幸八により修理をされており表面は古色仕上げとなっている。

根元は一本の木からなり、樹齢は約400年とされている。宝船の形をしており、多くの人々に富と幸せを運んでくると伝えられている。平成21年に箕輪町指定保存樹木となった。

無量寺第41世頼雄法印の功績をたたえ、第43世自明法印・第44世頼善法印によって享和3年(1803)に造立された。作者は木下の石工、木下平右衛門で、近隣に数多くの優品を残した石工である。ノミのあとは細かく、その技量の高さを示している。費用は総額金百両余、助力千人と刻まれており、周囲を四天王、地蔵菩薩、不動明王などで囲み、東西に真言八祖像(真言宗を広めた僧)を配し、中央の塔に世界平和と三界万霊を願い、宝筐印陀羅尼三千巻の内七百巻石に書き移し、残りを紙に書き移し、多くの宝物を納めてある。郡下にその例のない貴重な石材彫刻群である。